2013年04月24日

25日第2講時は、『般若心経』

 大谷大学は、ご存知の通り、真宗大谷派が設置している学校です。で、真宗の祖は、高校の教科書にも載っている「親鸞(しんらん)」です。親鸞は、11月28日に亡くなったと伝えられています。その日を機として毎月28日(近辺)に、大谷大学でも「親鸞聖人御命日勤行」が行われます。今月は、4月25日(木)に、第2講時を休講(事務の窓口業務も休止)して開催されます。

 しかも、今月は、講話もあります。
 しかもしかも、講師は仏教学科の山本和彦先生です。
 しかもしかもしかも、講題は「『般若心経』について」!

 詳細は、大学のページをご覧下さい。

 休講措置がとられるので、わざわざ授業を欠席までする必要はありません。堂々と聞きに行きましょう!

 

 『般若心経』といえば、こんな楽しい動画もありますね。

posted by 慧思 at 22:33| 京都 | Comment(9) | TrackBack(0) | キャンパス点描 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ブログでお勧めいただきましたので、親鸞聖人の教えと般若思想の両方に関心をもって仏教を学ぶものとして真剣に聴講させていただきました。御命日の講話という機会ですから、宗教的な意味に触れるお話を聞けるものと期待しましたが、講題通りの『般若心経』概説といったおもむきの講義でしたので、その点は少し残念に思いました。配布されたレジュメに沿った簡潔な説明に刺激を受けて考えたこと、疑問を抱いたことがいくつかありますので、以下にコメントさせていただきます。

1. 話のはじめの方で、法隆寺に伝わる『般若心経』のサンスクリット写本が現存最古であることを紹介されましたが、日本における梵文原典の存在をマックス・ミュラーに伝え、そのいくつかを取り寄せる仲立ちをしたのは1879年からオックスフォードのミュラーのもとに留学していた南条文雄・笠原研寿両師です。岩倉具視からミュラーに贈られた法隆寺蔵『般若心経』『仏頂尊勝陀羅尼』の古悉曇文字貝葉の写真を謄写し、校訂出版(F. Max Muller and Bunyiu Nanjio eds, The Ancient Palm-leaves Containing the Prajna-Paramita-Hridaya-Sutra and the Ushnisha-Vigaya-Dharani. Oxford, Clarendon Press, 1884)にいたるまでの作業を補佐したのは、英語を習いサンスクリット文典を習得して日の浅い南条・笠原両師です。ミュラーの指導を受けながら一緒に行なったのです。1880年1月からミュラーのもとで梵文『無量寿経』および日本から取り寄せた『阿弥陀経』『金剛般若経』梵本の講読をしていた二人は、『般若心経』と浄土経典を同時期に文献学的に学んでいたのです。南条文雄先生の『懐旧録』には、「これらの仏典を謄写したり、訳読したりすることが、私たちの毎日の務めであった」と、その充実した日々を懐かしんで記されています(東洋文庫版 p.130)。南条・笠原両先生の真摯な学びの姿勢はマックス・ミュラーを感動させ、二人は1881年9月ベルリンで開かれた万国東洋学士会議に同行し、引き続きパリのフランス学士院碑文・美文アカデミーにおけるミュラーの講演にも参加し、日本に伝えられていた梵文大乗経典を招来し西欧の文献学の方法を学んでいる熱心な学僧として紹介されています(この事実については2009年12月真宗総合研究所におけるジャン=ノエル・ロベール教授の講演 “French and Japanese Cooperation in Buddhist Studies”の中で紹介されていました)。南条・笠原両先生のお仕事は、大谷大学仏教学の原点ともいえる大切なものですから、(間衣輪袈裟を付けられた)南条先生の肖像を背にした御命日講話の中で、少しでも触れていただけたら良かったように思います。
Posted by TI at 2013年04月30日 01:13
2. 山本先生による『般若心経』テキスト解題は、それが『二万五千頌般若経』を下敷きにしているということを繰り返し説明されましたが、近年の『般若心経』研究の中で最も重要といえるジャン・ナティエ博士の仮説(“The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text?” [JIABS 15-2, 1992])に全く触れられなかったのは何故なのだろうかという疑問が湧きました。『般若心経』梵本は、漢訳された『二万五千頌般若経』をもとに中国で作られた偽経が後にインドにもたらされ、そこで再びサンスクリット訳されたもの(back translation)である可能性が高いというナティエ博士の大胆で独創的な仮説は、すでに和訳が出て日本版ウィキペディアも紹介している説ですから、一般の聴講者にも関心があるところだろうと思います。学問的な立場からのテキストの解説ならば、ナティエ説を支持するしないに関わらず、全く言及しないのは不自然に感じました。
Posted by TI at 2013年04月30日 01:20
3.「色即是空 空即是色」という大乗仏教で最もよく知られた一節を取り上げて話された内容が今回の講話の中心かと思いますが、その部分に最も違和感を覚えました。レジュメの3ページにサンスクリット文の和訳(立川武蔵訳)を出した上で、注11の中で後半部分に関して次のように書かれています。「「空即是色」:この表現は初期般若経典群にはない。空が物質。文字通りに解釈すれば、本質のないものが物質ということになるが、本質のないものは物質に限定されていないので、この表現は論理的に破綻している。別の意味が含まれていると思われる」として立川武蔵先生の説(『空の実践』p.121-122)を紹介されています。「論理的に破綻している」というのは、ニヤーヤ学派と中観派の論争の中で用いられそうな挑発的響きをもつ言辞ですが、山本先生の場合にはどのような立場からの指摘なのか分かりませんでした。インド新論理学の専門家として読んだ場合なのでしょうか。お話の中では「論理の破綻」ということばかりが強調されていた印象で、先生御自身の解釈は示されていなかったように思います。もし「論理的に破綻している」という表現を使われるとしたら、その場合には形式論理としてなのか、弁証法的・宗教哲学的論理を含むのかといったことを明確にした上でないと、乱暴でぶっきらぼうな断定のように聞こえました。
 大谷大学仏教学の伝統でいえば、鈴木大拙先生も山口益先生も、般若空思想から禅と浄土思想への発展を思想的・文献学的に明らかにしようと努力され、特に「空即是色」という智慧から方便に展開する宗教的論理に大きな意義を認めた解釈を示されたように思います。龍樹・世親・曇鸞を通じて般若空思想と浄土の関係を学ばれていた親鸞聖人は、『正信偈』の曇鸞章を「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。 必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生、みなあまねく化すといえり」と結ばれています。ここに示されている往還の双方向性をもった本願力回向は、「色即是空 空即是色」という真空の妙用を表現しているのではないでしょうか。仏教学・真宗学の基礎として、山口益先生の『般若思想史』や『大乗としての浄土―空・唯識から念仏へ』がもっと読まれるべきだと改めて思わされました。『般若心経』と親鸞聖人の教えを結びつけて解釈した近年の文献としては、稲垣久雄先生が御自身の英語伝道サイト Amida Net (Mahayana Scriptures)に出されている英訳『般若心経』と「空性と本願力」と題された論文が参考になります。
Zuio H. Inagaki, trans. Heart Sutra (1) Sanskrit-English (October, 2000)
Zuio H. Inagaki, “Shunyata and the Vow-Power” (November, 2000)

Posted by TI at 2013年04月30日 01:33
4. レジュメの「まとめ」の部分とお話の結びの言葉に関して、「常識を疑うという態度で読んでいれば、新しいことが見つかる」という趣旨の経典読解の態度について述べて結ばれたように思いますが、「まとめ」の箇条書きの中で「新しいこと」にあたるのは何なのでしょうか。聞いていてよく分かりませんでした。「・『般若心経』は、お経ではなく真言である。・仏教の教理を理解させようという意図がない。意図は真言の効能。・主題は「色即是空。空即是色」(物質は空であり、空は物質である)という空思想ではなく、「ダディヤター ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」という女性の菩薩の心真言である。…. ・『般若心経』成立の背景としてイーシュヴァラ(自在神)やマントラ(真言)などヒンドゥー教からの影響がある。…」ここに挙げられている『般若心経』テキストの特徴には、日本版ウィキペディアに書かれていること(=少し専門的常識)を越える「新しいこと」はないように思われました。
 立川武蔵先生によるサンスクリット和訳に山本先生が変更を加えられた重要な箇所は、注10に挙げられている原田和宗『「般若経」成立史論』(p.141)を参照した上で、シャーリプトラに教えを説く語り手を観音(観自在菩薩)ではなく釈尊としたところと思われますが、なぜそのように変更すべきなのかという理由がよく聞き取れませんでした。文中に語り手は明示されていないので、文脈から観音と考えるのが自然なように思います。慈悲の菩薩が「智慧の完成」について智慧第一の仏弟子に説くというところに深い意味が感じられると思うのですが、どうして釈尊とされるのでしょうか?もし、経典において法を説くのは釈尊であるのが一般的だからというのが主たる理由だとしたら、「『般若心経』は、お経ではなく真言である」という「まとめ」と矛盾しているような気がします。
 またヒンドゥー教との影響関係を示す例として挙げられたアヴァローキテーシュヴァラ/イーシュヴァラいう名前の関連についてですが、「観音」という漢訳名の原語はサンスクリットではなくガンダーラ語などインド西北部の方言だという説が現在では有力です。ガンダーラ方言が後にサンスクリット化されていく音韻変化の過程でサンスクリット語のイーシュヴァラ(「自在」)との連想によってアヴァローキテーシュヴァラ(観「自在」菩薩)という現在のサンスクリット形になったのではないかという辛嶋静志教授の仮説を考慮すると、アヴァローキテーシュヴァラというサンスクリット名をあげて成立期におけるヒンドゥー教の影響を論ずることはできないのではないかと思います。
 
 以上、コメントが必要以上に長く細かな点に及んでしまったかもしれませんが、山本先生の「『般若心経』について」を聴かせていただき、刺激を受けて考えたこと、疑問を抱いたことですので、一聴講者の反応として受けとっていただければ幸いです。もし上記に私の誤解が含まれているようでしたら、このブログ上で訂正していただけると有り難いです。他のブログ読者・聴講された方々からの感想・コメントもここで読めるとうれしく思います。
Posted by TI at 2013年04月30日 01:48
上の4に言及されてる原田和宗氏の本をコピペしてアマゾンでみたら正しくは 『「般若心経」成立史論--大乗仏教と密教の交差路』(大蔵出版、2010年8月¥ 8,925)ですね。
一般に真宗門徒が「般若心経」を読誦しない理由は、密教のマントラ的理解が世間に流布しているからでしょうか?
Posted by biija at 2013年05月04日 10:45
山本先生のレジュメに「心」が抜け落ちていたのを確認せずそのまま引いてしまいました(原田氏の本は未見。最新の研究がナティエ説をどう扱っているのか興味あり)。biijaさん御指摘ありがとうございます。
 玄奘 "訳”『般若心経』は、般若空思想の宗教的な意味も強く感じさせるから広く読まれ、写経に使われているのだと思います。ベルトルッチ監督(音楽は坂本龍一)の映画『リトル・ブッダ』は、シアトルの海にラマ・ノルブの遺灰を流すシーンで終わりますが、そのバックに流れる「Ruupam Suunyam Suunyataiva Ruupam (Form is empty, emptiness itself is form. 色即是空 空即是色)」の歌声はほんとうに感動的です。表層の型式や常識的論理を越えた不二なる「何か」が、人間が生きていく上では大切なのだということが心に響き伝わり、執着や迷い、苦悩や恐怖から人々を解放するように働くのだと思います。

   分け入っても分け入っても青い山
   どうすることもできない矛盾を風ふく
   山へ空へ摩訶般若波羅蜜多心経     山頭火
 
Posted by TI at 2013年05月04日 16:07
『般若心経』の心、その内容の宗教性を語って信頼できるお勧め本は大和昌平『牧師が読みとく般若心経の謎』(実業之日本社2007年、1,575 円)。ジャン・ナティエの仮説を重視してます。大和さんはサンスクリットにも熟達した仏教研究者(東京基督教大学教授)で執筆時は北区紫竹の京都聖書教会牧師。ネットでもで同名の30分番組を視れるし、『牧師の般若心経談義』(連載36回)も読めます(特に色即是空・空即是色とナティエ説を取り上げた第18回「普遍的原理と歴史的事実」とそれに続く19回「キリスト教国の誤解」は検索して読む価値あり)。大和教授は、福井育ちの篤信の念仏者だったお祖母さんの感化で宗教に目覚めたそうで、謙虚で誠実な人柄と熱い求道心がジンワリ伝わってきます。基督教の信仰と仏教学の専門的教養に基づいて『般若心経』の宗教的味わい深さを読み解き、一般の人にも分かりやすい。いかにも実業之日本社が付けましたっていう感じのタイトルが災いしてあまり売れなかったようなのが残念。もし図書館になければ古書ネットで探してご一読を。これを読めば眼も心も開かれるでしょう。
Posted by biija at 2013年05月11日 14:58
大和先生は、京都の教会で牧師をされていた頃に「隣町」の仏教大学大学院で梶山雄一先生の指導を受けられたようですね。それでその研究の傾向と信頼性が分かります。梶山先生は、『般若経』の空の思想と回向の思想が親鸞浄土教の根本にあるという大乗仏教思想の大きな流れを明らかにされました。その多くの著作の中でも『大乗仏典―中国・日本篇 (22) 親鸞』(中央公論社1987年)の「仏教思想史における親鸞」と題された125ページに及ぶ解説は秀逸です。そこには真宗の信心を根底に置いたほんとうの「学問」が示されているように思います。
 その梶山先生に先だって、般若中観・唯識思想から曇鸞の浄土教を経て親鸞へという仏教哲学の系譜を長年にわたり研究されたのが長尾雅人先生です。長尾先生は、広島の真宗寺院に生を受けた縁によって仏教を学ぶことになり、京大で講師をされていた山口益先生のお宅に「入り浸って」薫陶を受けたことを、晩年のインタビューの中で話されています(「仏教学への期待〈長尾雅人/上山大峻〉」Ryukoku University, Summer.2000, No.46.これもネット上で読めます)。
 シルヴァン・レヴィが見つけた『中辺分別論』の安慧副註が付いたサンスクリット写本を校訂し、和・漢・蔵訳を付した『中辺分別論釈疏』(名古屋 1935年)は、大学を卒業したばかりの長尾先生と大谷の野沢静証先生が山口先生を手伝って出版されたものなのです。近年アメリカでも『中辺分別論』の英訳研究書が出ています。Mario D'amato, Maitreya's Distinguishing the Middle From the Extremes (Madhyantavibhaga): Along with Vasubandhu's Commentary (Madhyantabibhaga-bhasya): A Study and Annotated Translation (American Institute of Buddhist Studies, 2012)
Posted by TI at 2013年05月11日 23:29
『中辺分別論』の冒頭、有名な第1章の第1、2偈 は「色即是空 空即是色」を唯識思想から表現したものと言えるのではないでしょうか。
1「虚妄なる分別は存在する。そこに二つのもの(=所取・能取)は存在しない。しかし、そこに空性は存在する。その中に、また彼(=虚妄分別)が存在する。」
2「それ故に、すべては空ではなく、空でないということでもない。有であるから、無であるから、そして、また有であるからである。そして、それが中道である。」

こうした大乗仏教の基本思想は、一般的な形式論理(長尾先生が「ユーロ語」という造語で示された現代世界に支配的になっている認識・表現方法)とは本質的に異なっています。その重要な違いを学問的な言葉で明らかに示そうとする努力が、山口益、長尾雅人、梶山雄一という真宗に縁ある世界的な先生方の仏教学を貫いていたように思います。「ユーロ語の哲学」では見ることのできない大切なものがあり、それを「ユーロ語圏のひとたちも仏教学者はわかってきていると思いますよ。普通の人たちに伝えるのには千年かかるかも知れないけれど…。だから、ぼくは生まれ変わって、また仏教学をやらないといけない(笑)」と対談の結びで長尾先生はおっしゃっています(「仏教学への期待〈長尾雅人/上山大峻〉」)。

仏教を学ぶ者は、こうした先学の姿勢に学び、非力な身を自覚しつつも「仏教学への期待」に少しでも応えようとする志を忘れないようにすべきだと思います。長尾先生は97才まで勉強を続けられ、「忍辱」(クシャーンティ)という言葉を特に大切にされていたそうです。
Posted by TI at 2013年05月12日 00:05
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