その五台山の中心となる寺院である顕通寺の風景。
慈覚大師円仁が入唐した際の「大華厳寺」にあたります。

これは「銅殿」。五台山に限らず各地の観光者の多さにはびっくりしました。
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10月26日のfukujuさんのブログにコメントしたら、エラー表示が出てしまい、理由も分からず、もう一度コメントしたら、両方アップされていました。お恥ずかしい。何せおじさんのすることは、危なっかしいのであります。
ところで、龍門の盧舎那仏、わたしはまだ見たことがないのですが、ぜひ見てみたいと思っています。洛陽は、則天武后が実権を握ったときの事実上の都で、『華厳経』は、肝いりの法蔵を介して、ホータンからテキストと訳者(実叉難陀)を将来して作らせたものです(『華厳経』が盧舎那仏を開いていることは仏教学科の常識ですね)。その上、武后はそれを全部立派な石に刻んで、先祖供養のために太原の寺に奉納しました。太原は武一族の出身地だったのです。その上、中国のあちこちに太原寺という大きな寺を作ったり、多くの人を出家させたりしたのもすべて先祖供養のためでした。よほどひどいことをした一族だったのですね。まー、そんこんなで大変なひとなのですが、この時代が権力者の不安が元で仏教研究や文化が発達したことは否めません。何せ、馬鹿でかいものを作る人はよほどの自己顕示欲を持ったひとか、そうでなければ巨大な不安にさいなまれたひとであったに違いありません。そういうことも含みながら、一体どれほどのものを作ったのか、とにかく一度は拝見してみたいものの一つです。
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